男もすなる日記
【男もすなる日記】
読者の心をとらえる報道には優れた文才が必要とされたため、日清戦争においては、後に文名を得る俳人の正岡子規や作家・国木田独歩が従軍記者として派遣された。軍は彼らを正式に任命し、従軍させることになったのである。子規は、やまい病を押して従軍したが、すでに講和交渉が始まっていたため、交戦状態に遭遇することなく、帰国の船中で曙血した。一方の独歩は、巡洋艦「西京丸」と「千代田」に乗り組み、従軍記を「国民新聞」に連載した。「余が一弟に与ふるの書状」という形式で記されしばしば「愛弟」の呼びかけがさしはさまれたこの記事は、読者の注目を集め、後に『愛弟通信』の題で出版されるほどであった。紫式部や清少納言といった才女たちが活躍した平安時代、女の日記が心のうつる丁寧に記した主観的な記述であったのに対して、紀貫之の『土佐日記』の書き出しにある「男もすなる日記」は、職務上要求される政治的な記録として記されてきた。こうした日記には、「殿上日記」や「外記日記」といった、朝廷の重要な行事なおおやけどを記した公の記録もあるが、一○世紀になると、貴族の男は個人的にも日記をつけるようになった。その中で、現存する自筆本最古の日記とされるのが、藤原道長『御堂関汽口記』である。この日記は、道長が二○歳の長徳元年(九九五)に書き始められ、五六歳で出家する治安元年まで記されたといわれている。現存するのは長徳四年から、道長が右大臣となった長徳元年に、藤原氏の氏長者としての責任感から書き始められたと考えられている。